スピードへの幻想から人々を解放する提案に、世界は目を見張るでしょう。
「は じ め に」より


危機の今こそ、スピードについてオープンに語ろう

 自動車普及が始まってからちょうど100年の今、世界の自動車産業の危機が進行している。アメリカビッグ3の経営努力の不足、環境対応車の開発の遅れ、日本の自動車メーカーの外需依存の構造など、様々な議論がおこなわれ、サブプライムの金融と自動車販売の危険な関係が明らかになりつつある中で、ほとんど触れられないことがある。それは自動車のスピード性能についてである。

 スピードは自動車の魅力の本質とみなされてきた。この“魅力”ゆえに自動車がここまで普及してきた、そして、経済の根幹となった、それゆえに、危機にあっても自動車のスピード性能は議論の対象としてはいけない聖域、なのだろうか?

 私は、このような歴史的な転換点だからこそ、自動車のスピードについてオープンに語らねばならないと思う。自動車のスピードと、それを重視した道路整備の巨大な犠牲に眼を向けるべきである。犠牲にまっすぐ眼を向け、それを克服しようとしたとき、自動車の未来が開け、自動車を歩行者や他の交通手段と調和的に使うまちや、犠牲を伴わない本来あるべき社会の未来像が見えてくるのではないか。

失われてきたまちと生命

 自動車の性能を前提とした道路整備ゆえに世界の風景が変わった。自動車以前にできた市街地での道路拡幅や郊外を拓く道路建設によって、コミュニティと自然が、消しゴムをあてられた鉛筆画のように、あっさりと消されてきた。
 最大の犠牲は、世界で年間120万人と推計される道路交通死者である。わが国の戦後の道路交通死者は約80万人と推定され、それは第二次世界大戦で犠牲となった市民の推定値に倍する。そして、自動車交通で傷害を負う者はわが国だけで年間100万人を超え、世界では年間2,000万人とも5,000万人とも推定される。
 残された家族の悲しみは深く、重傷者自身と重傷者を抱えた家族の苦しみは重い。しかし、被害があまりに日常化し、報道されるものは限られ、日常の明るさの中で被害は忘れ去られていく。
 まちと生命の犠牲、それは国境を問わず、世界のあらゆる場所で起こっている。ほおっておけば、発展途上国での自動車の爆発的な増加に伴って、犠牲は幾何級数的に巨大化していくだろう。

スピードを見直せば蘇えるまち、激減する犠牲者

 ここで、立ちどまって、自動車のスピードについて語ろう。過剰なスピード性能を見直し、まちの中心部を基本的に歩行者空間とし、そこにどうしても入らなければならない自動車のスピードが歩行者の速度を超えないようにする。歩道が整備されない住宅地の道では自転車のスピードでゆっくり走る。歩道が整備された道では、適切な上限の中で加速ができる。高速道路では、やはり適切な上限の中で高速で走ることができる。緊急時の自動車走行をするとき、上限を解除することができる。
 車の最高速度を場所や状況によって変えることができれば、コミュニティや自然を守りながら、機能を更新し、新しい経済と社会活動にも応えるまちづくりが進むのではないか? 自動車による膨大な犠牲者は激減するのではないか?
 このように速度を制御するのみでなく、設定した最高速度を外部にライトで表示する仕組みをつくろう。最高速度によって、ライトはレインボー、青、黄緑、オレンジに変わる。そうすれば、最高速度を宣言している、外から見られている、という心理でドライバーは注意深い運転を心がけるのではないか? 宣言した最高速度を超えたとき、ライトが点滅すれば、この表示の仕組み自体が速度抑制の役割を果たすのではないか?
 名づけてソフトカー。私がソフトカーを思いついたのは1982年のことだった。

ミレニアム・プロジェクトで現実になったソフトカー

 想像するだけでなく、私は、このような車を現実のものにする機会に恵まれた。ソフトカーの研究は、2000年、国のミレニアム・プロジェクトのひとつに採択された。優れた友人たちの力を借りて、既存の車をソフトカーに変える装置を開発し、私が勤める千葉商科大学のまち(千葉県市川市)の市街地で走行実験をおこなった。ソフトカーは市川のまちの人たちに愛された。
 私が専門とする都市開発の国際会議でソフトカーの構想を発表し、2001年にはマラッカ(マレーシア)の歴史的市街地でソフトカーのデモンストレーション走行をした。
 ソフトカーのプロジェクトを始めてから、欧州やオーストラリアの研究者が同じ考えでISA(Intelligent Speed Adaptation)と呼ばれる速度制御の研究を進めていることを知り、スウェーデンやシドニーを訪問し、情報交換をするようになった。

愛・地球博に参加したソフトQカーとEXPOキャラバン

 2005年、ソフトカーの装置を搭載した電気自動車“ソフトQカー”が愛・地球博のパレード車となった。この機会に、私はゼミの学生たちと、全国の小学校や自治体をソフトQカーで訪問するEXPOキャラバンをおこなった。ソフトQカーは遠く九州の唐津市(佐賀県)に至り、北九州、広島、神戸、大阪、京都などを経て博覧会場に至った。キャラバンは各地で歓迎され、特に子どもたちの興奮ぶりは凄まじかった。私は、子どもたちと、一緒に未来の車をつくろうと約束した。

悲しみの現場へ、ワシントンD.C.宛てのメッセージへ

 それまでのプロジェクトの成果と、20世紀の自動車と都市開発の歴史、ITS(Intelligent Transport Systems)の現状を分析した学内論文をいくつかまとめ、出版の準備をしていた2006年の夏、私はソフトカーの原点を忘れてはいけないと気づいた。原点は、自動車によって失われてきた多くの生命である。私は交通被害の家族の方々とコンタクトをとるようになった。多くは幼いお子さんを亡くした方々で、家族の悲しみは深く、被害の現場は残酷であった。私は「世界道路交通犠牲者の日(ワールドデイ)」の存在を知り、2007年11月に、掲示板を立ちあげ、全国の遺族の方々とつながっていった。
 悲しみと希望は国境を越える。自動車産業の危機の中であるべき政府の姿を求め、私たちは、イギリスの、スウェーデンの声をつなぎ、ワシントンD.C.に宛ててメッセージを送った。2009年1月のこと。そして、未来を展望する今に至る。

「脱・スピード社会」へ―共有されるべき理念

 本書は、以上に要約したソフトカー・プロジェクトの展開と、その背景となった20世紀の自動車と都市開発の歴史、進行中のITSの現状についての分析をとりまとめたものである。読者のみなさんを、早速、第1章にお招きしたいのだが、その前に追記しなければならないことがある。それは、本書の書名となった「脱・スピード社会」のコンセプトについてである。


 20世紀の自動車と都市開発の歴史をあらためて勉強し、それをソフトカー・プロジェクトの実践に照らしあわせ、私は次のような認識を持つようになった。すなわち、これまで100年の西欧社会(とりわけアメリカ社会)に「速く走る車にあわせて世界を変える」という意思、そして「技術によってそれが可能である」という楽観論(あるいは期待、幻想)があり、この意思と楽観論を背景としてメーカーが自動車生産を続け、政府が高速道路網をつくり続けてきた。この意思と楽観論を追ったのが日本社会であった。ITSの技術開発は、この意思と楽観論の延長線上にある。
 この意思と楽観論は失敗に帰した、というのが私の認識である。膨大な交通被害とまちや自然の破壊はこの失敗の証拠である。情報技術で車の安全性と利便性・快適性を実現しようというITSは早晩行き詰るだろう。
 スピードを至高の価値とみなす社会が「スピード社会」である。「スピード社会」では、高速走行に寛容で、事故は多発する。過去100年の欧米、そして、わが国は「スピード社会」であった。このスピードの価値を問い直し、過剰なスピードを制御し、まず安全を実現し、それと調和する範囲で利便性や快適性を実現していく。自動車に限らず、交通に限らず、生活のあらゆる側面で、スピードや過剰な利便性や快適性の追求を見直していくのが「脱・スピード社会」である。それは、人間の生命や自然を守り、人と人のつながるコミュニティ=まちを回復し、私たちが立ち帰るべき社会である。「スピード社会」は、ほぼ「モダニズム」に対応し、「脱・スピード社会」は「ポスト・モダニズム」に対応する。

 本書を著すのは、「脱・スピード社会」の概念をみなさんにお伝えし、共感を求め、同時に、厳しいコメントや批判も受け止めて、21世紀のはじめに生きる私たちが共有すべき理念を確認し、行動に移すためである。

1980年代へ、100年前へ、そして未来へ


 「はじめに」はここまでにして、読者のみなさんを、第1章にお招きしよう。そこは1980年代初頭の筑波研究学園都市である。自動車に完全に依存したその筑波の人工空間でソフトカーのコンセプトが生まれた。
 第2章・第3章で、歴史をさかのぼり、100年前から現在に至る歴史をたどる。それは、スピードを上げる自動車(=ハードカー)と道路を根幹とした都市(=ハードシティ)開発の歴史である。そして……

 さあ、私たちの旅が始まる。私は、ときどき、目的地と違う!とあなたが思う方向に向かうかもしれない、慄然と立ちつくすかもしれない。しかし、大丈夫。時には寄り道も、立ち止まることも、大切。私たちは、ソフトドライブで、ウオーキングで、未来への眺望がひらける小高い丘に間違いなく到達する。

 そこであなたが、風を感じ、あなたの故郷にかかる虹を想ってくれたら、私たちのひとまずの旅は成功である。

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本が連覇した日、インドのタタ社が小型車ナノのお披露目をした日の翌日

2009年3月24日 小栗 幸夫 

脱・スピード社会
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[著者紹介]
小栗幸夫(おぐり ゆきお)
1946年、岐阜県瑞浪市生まれ。
千葉商科大学政策情報学部教授、ソフトカー・プロジェクトチーム代表。
早稲田大学第一政治経済学部、東京工業大学社会工学科研究生、一橋大学大学院経済学研究科修士課程を経て、フルブライト留学生として米国ペンシルヴァニア大学都市計画学部博士課程終了、Ph.D.in City Planning(都市計画学博士)。筑波大学社会工学系講師、セゾングループ・株式会社西洋環境開発勤務、株式会社アーバン・プラネット環境計画代表取締役などを経て2000年より現職。
[著書]

『コミュニティオフィス・2005―自由時間都市ネットワークの提案』(PHP研究所、1989、編集代表)『リゾート事業戦略』
(清文社、1990、共著)
『活性のまちをつくる―自由時間都市における人と地域』
(ぎょうせい、1999、共著)など

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