日本の税制
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224第Ⅱ部 大和政権から奈良時代まで第Ⅱ部 大和政権から奈良時代まで 人質は,服属の一形態であるから,我が国の対新羅外交の勝利といえる。また,任那の調について,坂本太郎は,「任那滅亡後,新羅が任那の調を進めてきていたが,最近数年間は旧任那の地を取得した百済が代わってこれを進めていた。したがって,この停止の措置は新羅の貢調の義務を解き,その敵国である百済の旧任那領有権も否認したことを意味している」(坂本太郎他校注『日本書紀』下)と説明している。B.調の納期○天武天皇*5年(676)5月3日 調の納期を守れない国司たちの罪状を明らかにされ,云々(しかじか)と述べられた。 『大宝令』(賦役令第3条・調庸条)では,調は8月中旬から,近中遠国はそれぞれ10・11・12月末までに中央に納入することになっている。しかし,この当時も同じような期限で,なかなか納期限が守られないことが多かったと想像できる。ⅱ.徭 役○皇極天皇*元年(642)9月3日 天皇が大臣(蘇我蝦夷(そがえみし))に詔して,「大寺(百済大寺)を建造したいと思うので,近江国と越国(北陸地方)との丁(よほろ・公用の労働に従事する人夫)を徴発するように」といわれた。また,諸国に命じて船舶を建造させた。*同年 9月19日 天皇は大臣に詔して,「今月から12月までの間に,宮室(飛鳥の板蓋の宮)をつくりたいと思うので,国々に用材を伐採させよ。東は遠江(とおとうみ・静岡県西部)まで,西は安芸(あき)までの国々から,造営するための丁を徴発するように」といわれた。

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