日本の税制
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226第Ⅱ部 大和政権から奈良時代まで第Ⅱ部 大和政権から奈良時代までⅴ.班田使○持統天皇*6年(692)9月9日 (庚寅年籍に基づく)班田大夫(たたまいのまえつきみ・班田使)らを4畿内に遣わした。 この条が班田使の初見とされている。その後しばらく記録に現われないが,天平元年(729)以後に,何度か記録に見える。使(長官)以下の四等官の他に多数の算師(さんし・主計寮や主税寮,大宰府に設置されて,計数を掌る官職)や史生(ししょう・官司の四等官の下に置かれた下級職員)によって構成されていたようである。 この条について,坂本太郎は,「班田収授は,各国司が行うが,畿内に限って班田長官以下の官人を任命する。これは前年夏に進上された庚寅年籍に基づく班田である」と。一方,八木充は,「畿内において一斉班田が行われた」とする。 ところで,班田をするには,支給されるべき対象者の戸籍を整備すること,並びに支給すべき田を整備し,田図にするなり台帳にして割り付けることが必要で,畿内のような市街地があるところでは,割り付けるべき田が居住地から遠くなることがあり,また,人口変動も起りやすく,国司は役割を分担して担当させる必要があったと思われる。 しかし,土地に関する諸問題については,これまで,その地を伝統的に支配してきた豪族や有力者が取り仕切ってきたもので,中央から派遣された国司では,荷が重くて裁き切れないものがあったと思われる。大水の災害があれば,田の形状は変貌し,田図や台帳,境界・水利・日照・地質などが変化することから,田の評価の等級を変更することもあり,また,耕作者が没落したり,逃散することもある。 このようなことから,年籍や計帳を維持し,現実と合致させることは極めて難しく,もめ事に関する公正な裁きが確保されることも困難で,記録に残らないような事件が発生したり,やむなく罪を犯す人々も増加することになったと

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