日本の税制
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227第二章 飛鳥時代思われる。 こうした班田は,税収を計るうえで大きな役割を果たし,一定の期間は,耕作者の意欲を刺激し,国力の増進を飛躍的に高めたと思われる。しかし,それは,公正,公平で安定した政権を前提としているので,戦乱や政権紛争,あるいは食封の偏重運用などの事例が発生するたびに,現実との乖離を起こし,規模を拡大できる資力のある有力者や有力組織の傘下に吸収されることになりがちであった。そのようなトラブルを解決するために,畿内においては,特別に任命した班田収授役の長官を派遣したのであろう。 律令時代における班田使は,班田授口帳に基づいて畿内の班田を行うために,民部省から臨時に派遣された官僚である。なお,畿内以外の諸国の班田については,それぞれの国司が行っている。班田使は,天平元年(729)から承和11年(844)の間に8回任命されたことが知られている。その職務は,班田の実施後,田図帳(図帳)を作成して民部省に報告することである。班田の公平だけでなく,課税の公平を確保するために設けられたものと考えられる。ⅵ.浮浪人への課税○天智天皇*9年(670)2月 戸籍(庚午年籍)をつくり,盗賊と浮浪(ふろう・うかれびと・本籍地を離れた者)を取り締まった。○天武天皇*6年(677)9月30日 およそ浮浪人で,その本籍地に送り返された者が,また浮浪地に戻ってきた場合は,向こうでもこちらでも(本籍地と浮浪地),双方で課役(えつき・調と労役)を課せよ。 天武天皇6年(677)9月30日条で,「向こうでもこちらでも(本籍地,浮浪地),双方で課役(調と労役)を課せよ」とあるのは,二重課税とも思われるが,浮浪者対策としては,後に例を見ない厳しい措置であると思われる。 なお,『大宝令』では,課役は調・庸・雑徭を意味するが,この時代には,庸と雑徭は未確立と考えられる(坂本太郎他校注『日本書紀』下)。

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